塾の帰り。二時間くらいぶっ続けで取り組む数学の時間だって全く苦にならない素晴らしい塾も終われば九時半になっていてあたりは真っ暗。年頃の女の子がこんな時間に中目黒を歩いていて良いのかしら、けれど、実際駅まで歩くのは数分程度だからとやかく言及するほどのものでもありません。
あたしは東急東横で渋谷を目指します――灰色の帯に銀色をした隣の電車は見てはなりません、そ・れ・はあたしを殺めます――東急東横は好きでも嫌いでもありません、が、東急東横線渋谷駅は大好きです。あの頭端式ホームはもちろん、ゆるやかに減速する東急電鉄の車窓から俯瞰する渋谷がたいへんいじらしく可愛らしいものに感じられるからです。井の頭線を利用して毎日降り立つ街でこそあれ、視点の違った普段目にすることのない渋谷の美しい風景は、私に渋谷への愛着を感じさせます。

 

その日、わたしは手がなんとも気持ち悪くて、ぬめぬめともすべすべともつかない、自身の手が齎す感触を不快に思っていました。他の人の手を握った時、その人の手がこんな感触をしていたならきっと私は安心するでしょうに、そのとき手のひらには悪い印象しか覚えませんでした。
肉厚なわたしの手。ほんのり赤みを帯びています。皹なんてしたことがないのでしょう、と祖母に言われます。近ごろは手のひらに皺が増えてきて、気味の悪い思いをしています。手相が曖昧だった小学生時代は早く手相が見えてこないものだろうかと仕切りに願ったものですが、いざ手相が見えてきてしまうと、まさしくそれは自分の運命がくっきりはっきり決まってきてしまったことの証明であり、わたしの前には今見えるだけの道しかないのだという行き場のない悲しみがあるのみです。手相だけで人生を語ろうとはこれっぽっちも思いませんが、この殆ど決まってしまったであろう我が運命と共に歩んでいく道しか残されていないのだろうかと夢想すると、耐え難い息苦しさを感じるのです。
イルミネーションの瞬く中目黒にバイバイ。人のいない渋谷行の東横線は暖房が効いていて、冷たい血が温かい血管に流れ込むのがわかる気がします。あたしはそっと左手を握ります――指の腹が手のひらに触れます。左手を開き、指のすぐ下の、膨れている部分を右の親指でなぞります。なんて柔らかいのでしょう。妊婦の腹を触ったときのような危うさを孕み、恐ろしさすら感じさせるてのひら。メロンのような網目状の肉に――あたしは殺されてしまいます。

 

電車は四番線に止まって渋谷は見下ろせません。見えない力に動かされるようにしてわたしはドトールの前を通り、井の頭線へ行くには階段を昇ろうか降りようか考えながら改札を通り、今日のこと――今日の数学の先生はあるtwitterの人に似ていたなとか、その人の筆跡は読みにくかったけど特徴的でわたしは好きだなとか、そういえばフレッシュネスはクラシックバーガーを五つ食べたら一つ無料でくれるらしいから今度食べようとか――を思い返せば、ほら、もういつの間にか紅色の改札が見えてる。

 

iPodは使わないようにしよう。現実を認識していられるように。twitterは見ないようにしよう。思考を支配されないように。
大切なことは忘れないというけど、大切かもしれないことは忘れてしまう。だから、思い浮かんだことだけ、頭の中で言葉が出来たときだけ、携帯電話を開こう。曖昧な、ベッドに入っているときの思考はすぐに忘れてしまうから。目に見えればもう、こっちのもの。
 

そうやって、新たに見つかったあたしを殺すトリガーはまた補完されます。