私の世界にはどこか空白がなければならない。地図は真っ白でなければならない。調べ尽くされた地図はその意味を理解され得ないままいなければならない。
 他人は永遠に理解し得ないものである。私はいつだって真っ白な世界*1の中からひとつの糸口を見つけ出し、それをたよりに大いなるものを私と対象との間に作りあげてきた。
 影などないような果てしない真っ白な箱の中に様々なものが生まれる。糸で編み上げた楼閣。すべり台。アスレチック。休憩室。ベッド。茶室。必要なものはすべて糸から作り上げた。糸は空白そのものだった。空白を解くと糸は忽ち白く光り、ややあってほんのりと赤く灯る。*2
 するするするするするするするすると糸を手繰り寄せ、指にくるくると巻き付けながら籠を編み上げる。私ではないひとは布を切り私のために服を縫う。空間を震わせるその声は空白を殖やし靄となってふわふわと舞い上がり高みに消えていく。あなたの微笑みで、区界は仄かに赤みを帯びるのだった。

 私は彼女との間にひとつの小物入れしか作り上げることができなかった。当初彼女は私と遊ぼうと指人形を作った。彼女の手は小さく、指はとても細い。結句彼女の指人形は沈黙を生んだ。さらさらさらと空白が蒼く鳴る。私は区界のために小物入れを作った。彼女はそれを見たのだろうか。指人形は彼女のポケットの中に仕舞われた。彼女はすこしためらうような表情を浮かべたが、それは私のためのものではなかった。俄に強風が私を襲い、空白は失われ、区界の時は止まる。彼女は二度と戻らない。

 ある区界では三日と経たずにビルが建設されたのを私は見た。その空白はよく延びてしなやかだった。ぱきり、ぱきりと硬質化するプラスチックのような糸が楽しくて、無我夢中で遊び呆けるうちにビルが建っていた。私の遊んだ残骸で、私ではないひとが組み上げたのだろう。私は感銘を受けたが、同時に底知れぬおそろしさに捕われた。ふたりしかいないこの広い広い空間の果て、私たちが遊ぶ中で生み出された種々の物体の中、迷子になってしまったら誰が見つけてくれるだろう。ぺきっと割れた掌中の沈黙を聞いてあなたは私を視た。気まずいように目を上げると、区界は囁き、空白は萌え出づる。
 枯れるも同じ野辺の草、いづれか秋にあわではずべき。

 さやかな区界には種が生まれる。区界に春の息吹が訪れると、それらの種は芽吹いていく。
 愛しい区界に真っ白なユリが咲いている。私ではないひとはユリと見まごうほどに透き通り、瞳を注視して会釈をする。数年の時を経て作られた琴は、その袴姿によく似合う。生田流の優美な響きを区界はよろこび、草木はのびのびと呼吸をする。

 区界から出られないと思うときがある。私はとてもおそろしくなる。この区界が失われてしまったら私はどこへ行けばよいのだろう、どこを彷徨うことになるのだろう、と。しばらく足を踏み入れていない区界にも私をうれしく思ってくれるものがあることを忘れがちになる。けれど、迷路のようになってしまった区界から出ることが厭わしく、また寝転んで陽光を浴びているソファの居心地があまりにも良くて、私は出たくなくなってしまう。もうそろそろ、と私ではないひとが私に教えてくれて初めてその区界を離れることができる。

 区界の外では空白は溶けてしまう。手のひらで溶ける糸を哀しく見つめた。区界で匂った草木の香りが鼻腔をくすぐり、あたたかな空間を思い出す。萌黄の吐息が冷えて白く消える。やわらかな糸の感触を恋しく思いながら、家路につく。


 

*1:《区界》と呼ばれるのを耳にしたことがある

*2:2013/12/31