一年間でたった一回だけ。それとも、一年間に一回はある、とでも言うのかしら。

 私たちは秋に必ず一度だけ会うことができる。それは、突然訪れる。私は、秋の気配に浮き足立つ。アンニュイな目元に、金色の期待を忍ばせて、あれの来訪を待つ。頼んでもいない宅配業者の顔をして、かの人がベルを鳴らすのを、ずっと楽しみにしている。だから、それが秋のはじめだと、私はとても悲しい。秋の残りを、それの不在を知りながら過ごさねばならないから。秋の終わりであっても、不安に胸をかき乱される。もう今年こそ訪れない、私たちの関係性の終止符が打たれるのであろう、と。見たこともないあなたの笑顔を想像して、さぞ清々したでしょうと突き放すことで、自分を守ってしまう。そんな自己完結的な事務処理が、全然自分のためにならないことが愉快で、原因たる他者を憎みさえする。私はただ待つしかない。その会遇は、かの人にすべて委ねられている。私がどんなに行動を尽くしても、賽を投げるのはあくまでその人なのだから。

 銀杏の香が憂鬱なのは、それ自体の臭気によるものではない。栗の匂いに顔をしかめるより、ずっと切ない。この心臓をえぐりだし、大樹に捧げ、水たまりに溺没したい。自宅でひっそりとグラスを拭く時、千の剣で貫かれるような思いをするが、その孤独さえ愛しい、待ち遠しいと、身を焦がしながら、ただひたすらに私は待っている。生きる意味というのは、私にとっては間違いなく、依存めいた次の叩扉だった。

 正直なところ、かの人に会う時、私は全然うれしくない。早く帰ってくれればいい、そうして二度と目の前に現れなければいいのにとすら思う。あんなに浮き浮きして、身綺麗にして、すまして待っていたのに、それがすべて嘘で虚しくて、阿呆を喜んでやっていただけなのだとしらを切る。去ってしまってはじめて、自分が今までになく生き生きしていたことに気付く。言い換えれば、私が生の実感を得られるのは、一年にたった数時間程度だけなのだった。その憎悪、その厭世、その無気力、そしてひらめくような絶頂感、それらを継ぎ接ぎした時間のシーケンスが、日常の私にはない大きな感情の揺れを表している。体の芯から温まるようなエナジィが、私にもあったのだと実感させられて、その都度驚いてしまう。僕にかてパッションあったんや、と。

 でも、それも、今日でおしまい。かの人の不在に一喜一憂する日々にさよなら。私の話はもうここで墓石を置くことになる。流行り病に侵されて、医者を呼ぶあてもなく、この生命はここで息絶える。軒先の梅の香りにまぎれて、私の死臭が漂うことだろう。ともすると、人気のないこのあたりで、変わりきった私を見つけるのはあの人かもしれない。そう考えると笑いがこみ上げてきたが、ひとり笑う体力すらなくて、背中を折って痛みを逃がす。眠くてたまらないが、もう眠ってしまえば二度と目が覚めないような気がして、最早この一生に悔いなどないのだが、こうやって一人で思案するのをもう少しだけ続けていたいと思って、目を見開いている。だって、つい先日、かの人が見えていた。鮮烈な記憶は、冥土の土産には十分だったから。もうすこしだけ起きていたいのだが、それは難しいのだろうか。いつの間にか閉じている瞼の下で、これまでの好い記憶を反芻する。痛みや恥辱と生の実感はいつだって一体だった。まどろみの中で、また会えているような気がしている。めずらしく、あるいは初めて聞く、私の名前を呼ぶような、かの人の声を覚えている。