Ice Jotting

というなまえに恥じ入るほどに走り書きをしていない。
どうしてこのなまえにしたのか、もう明確には覚えていないけれど、思い出せるままにすこし'走り書き'をしたいと思う。

なまえ、には、強いこだわりを持つ。
持たない人なんているのだろうか。きっといるのだろう。それはきっと自分のことをなまえ以外で信じられる人か、自分を信じられない人のどちらかなんだろう。なまえなんていらない、と言えるひとをすこし羨ましいと思う。あまりに愛しく、名前を捨てることは四肢をもがれるようにつらいことだと、その人たちは決して思わないにちがいない。だって、要らないのだから。

私は何かに名前を付けるとき、とても長く考えるか、30秒で決めるかのどちらかしかない。言い換えると、30秒で決まらないようなら丸一日、丸二日、丸三日、延々うんうん唸り続けないと決まらない。それでも大抵の場合、一週間以内にはなんとか決まる。思考のほとんどを名付けることに費やし、心を砕いて選り分ける。かつて小説を書いていたころは登場人物の名前を付けるのに非常に苦労した。この話をモデルとなる人たちは読まないのだから、彼らの名前そのままに書いてしまおうかとすら思った。どうでもいい仮名を振って、時間切れとなり結局それが選ばれてしまったこともある。そういうとき、私は登場人物をあわれむ。かわいそうに、ごめんねと心を痛める。新しい名前を考えて自分の原稿の中だけでも直してあげればいいのかもしれない。でも、印刷されてしまった彼彼女の名前は、確かに仮名のまま半永久的に変わらない。

ブログの名前もお話の中の登場人物も自分の子供のように名前を付ける。Ice Jottingも、立ち上げてすぐ2時間くらいで決めたけれど、日付を指折り数えられる以上前から方針を決めていたから2時間で収まった。既にブログは一つ持っていたから、今度作るならメモ書きや走り書きにしたいと考えていた。タイトルも日本語じゃなくて、英語にしたかった。"Jotting"というのは、なかなか良いと思った。気に入ったけれど、その言葉に何をくっつけるかが問題だった。私の名前をくっつけた。あまり好きじゃなかった。Lazy Jotting*1、なんだか冗長だと思った。ブログの名前はともかく、他の作業をすることにした。はてダは、タイトルバーに表示するアイコンがカスタマイズできるらしい。カービィが好きだったから、画像フリーサイトでカービィのアイコンをおいてあるところから気に入ったものを取って来た。アイスキャンディー。バニラバーにチョコレートがかかっている。ちょっとひんやりな、夏はもちろん、冬でも食べたいアイスキャンディー。Ice Jotting。くちの中で転がす甘いキャンディー。愛しさを感じた。
 
名前を付けるのは嫌いではない。その'もの'の方向性を定め、どのような言葉をあてはめれば彼に似合うだろうと頭を悩ます。抱きしめずにはいられないような、愛しい名前を作る。そのもののアイデンティティをあるいは決定付けるような大事なものを委ねられている責任感。期待に応えようという意欲。まるで大事な日に着ていく服を選ぶ高揚感に似ている。悩むのが楽しい。

自分が本を出すならどんな名前にしようかと考えたことがある。浮かんでくるアイディアを逐次姓名判断につっこみ、ああでもないこうでもないと試行錯誤する。通学時間中に自分の名前を考えるのはとてもうきうきして笑みがこぼれるほどだった。
そういえば先日、テレビで新宿二丁目の人たちの源氏名の由来について話していることがあった。彼ら彼女らの名前のセンスは本当に尊敬に値する。キャッチーで覚えやすい、親しみやすい名前。ショーで踊ったり芸を見せたりする人たちのコンセプトをはっきりと意識して各自「適当に」決めているのだと嘆息した。そこで登場していた人たちの名前も、また愛しい。

最近はとんと名前をつけることがなくなったような気がする。次に名前を考えられるのはいつなのだろう。とても待ち遠しい。

*1:既に作っていたブログ名に倣った。私と怠惰性は切っても切れない関係だから。