夢のつづき

夢のつづき*1

目が見えなくなるということは大変おそろしい。本来備わっている(いた)はずの『あたりまえ』な自分自身の能力が消えていくとき、そして衰退に何の手立てもかなわないとき、いいしれない不安があなたを襲い、それを食らった妄想が真っ黒な翼で羽ばたいていくのが分かるだろう。一日一日確実に世界が輪郭を失っていくこと、例えば一週間前ならはっきりと読めていた電光掲示板が自分だけに情報を歪めて提供することは、自分自身の判断を何もかも疑うきっかけになる。正しくキャッチできている情報なんて、なんにもないのだ。五感の伝える電気信号は正しいほんの少しのことを大多数のわからない何かと一緒くたにして管制塔に伝える。ブレインが正しく判断できていることなんて、百にひとつもないのではないか。今まで虚構ばかりを培ってきたのだろうか。それに、知らないことを知り嘘を蓄えていくたび、真実の方から逃げていくような気がする。偽物に囲まれて生きて生活していくことに一体どれほどの価値があるのだろう。言葉を発しない情報媒体をキッとにらみつけ、彼らの見ていないところでため息をつくことくらいしか出来ない。
それもこれも、眼鏡を作ってからである。眼鏡が恐怖と絶望を齎した。身体を信じることを止め文明の利器に頼った結果だ。生活の不自由を予め与えられている自分自身の力によってではなく、今では神と崇められるまで成長した科学技術によって解決しようとすれば、必ず肉体は激昂して支配階級に反旗を翻す。これは罰なのだ。父なる神があわれな私にお科しになった刑なのだから、甘受しなければならない。いや、享受してしかるべきものだ。だから眼鏡は極力かけてはいけないのである。眉間にしわを寄せて人相の悪い目で黒板をにらみつける(姿を見た人が気分を害する)よりは眼鏡をかけて大人しく授業を受けるべきではあるけれど、誰かの感情を考慮するスキがない限り、眼鏡はしないほうがいいに決まっている。
電車を降りて階段を使う。ひんやりとして澄んだ空気を串刺しにするほど明るい板にきびすを返す。二三段上がると、ひらりと白くまばゆいものが視界の中に映り、見えてはいけないものまで見えるようになってしまったかとそちらへ意識を移せば、眼下で鉛直方向に揺れる光は携帯電話の画面であり、ただ私の手のふるえに伴って上下運動を行っていただけであった。そう、私の手のふるえに伴って。あれ、私はいつから手ががくがくになっていたのだろう。いったいどうしてしまったのだろう。動揺に包まれ視界もどんどん霧っぽくなっていく。カメラで絞りを調節したらこんな感じになるよね。ただ角膜は二つあって水晶体も二つあるからこうやって二重になっていくんだよね。ひへへ、とおもわず声をもらす。自分でもおどろいて息を吐く。ははっ。おかしいや。視界はぼんやりしたまま正しい姿を見せようとしない。私は村二分くらいになってるのだろうか。セカイすら私に反攻するのだ。
パーキンソン病のようになった右手を携帯ごとコートのポケットに隠すとすぐ元に戻った。階段から昇ってくる人々の首から下はたいてい真っ黒で、ぽつりぽつりと白い上着を羽織った女性が黒タイツに包まれた美脚を惜しげもなく酷使しているくらいだった。みな下半身は闇に溶けてしまっているのだから、全員影になってしまえばいいと思った。黒タイツ禁止の校則を無視して帰宅時にはソックスからタイツに履き替えている私も例に漏れなかった。
乗り換えホームに着くまでに、電車の中でかなしい夢を見たような気がしたのを思い出した。なんの変哲もない鳥、オウムがどこかへ行ってしまって、どんなに大切だったのかと後悔しながら探そうと努力するのだけど、自分の行動が原因となって結局死んでしまった(と思った)。遺体すらなかったけれど、異常な量の羽が落ちていた。と思うと、死んでいたはずのオウムが生きているというような話を聞きつけるが、ゾンビに行く手を阻まれて行けなくなる。そんな夢を見た。
怖かった。
ぼんやりとした記憶とぼんやりとした視覚が妙に不安を煽る。おぞましい、凍てつく風に吹かれて身を震わせた。

先日初めてコンドームの自動販売機なるものを視認した。家の近くにあった。今まで気付かなかったのが不思議だった。*2

息を吐く男。それを見守る美麗な若い女性三人、みな"いわゆる女性ではない"。
「はっ、はっ、はっ」
箱の着ぐるみの側面に顔が見え、四肢が生え、その両手は彼女の腰を掴み、手を付く彼女の後ろからピストン運動を続ける。
埃っぽい古いホテル。彼らの仕事場であったはずの場所で、彼はベンダーではなくクライアントになっていた。
 
「新しいの使っても大丈夫かな」
古いのを使ってるかもしれないから破れてないか確認した方が良い。と、女性陣が腕組みしながら無表情に答える。
適当なホテルに忍び込み避妊具を高額で押し売るのが彼らの仕事であったが、今の顧客は彼なので高額なそれを購入するのを躊躇っているのを"女性でない"、則ち高度な知能を持ち自ら立ち上げた事業を拡大させるだけの能力と自我が有る、彼女たちは知っていた。アドバイスを受けて着ぐるみの男はぷっと空気を入れて膨らませる。漏れてないから大丈夫。肩までの黒髪を切りそろえた少女はぐったりしている。う、あっと苦痛に喘ぐ彼女。彼らの関係性において初めて射精される。
 
全自動コンドーム販売男に恋する彼女の積極性に驚いた。青く照らされた石の敷かれた庭のあるホテルに忍び込む四人の後を追ったのである。件の話は斯くして起こったのだと本人から聞いた。ぞろぞろと暗闇の中団地を闊歩する大学生集団に交じり、性行為の成功を聞き知る。
すると東荻窪に住んでいるYさんが話しかけてきた。弟がいるけど家出したのでどうしているかは知らない。
母親は精神を病んでいる。ので大学に通いながら面倒を見ている。
先日の嵐で家はめちゃめちゃに壊されてしまった。
だから今は一人で片付けながらなんとなく生活しているとか。
 
じゃあお母さんに弟は戻ってくるよって言ってあげないと。
私は提案する。部屋にいない彼女を私と同期で探す。
 
タワーマンションから飛び降りかける彼の母親。
 
無理をしてYさんが命を落とす。
 
私の所為だ。
 
恋人が私の所為ではないと肩を叩いて首を振る。でも。
 
脳がぐちゃぐちゃにかき回されて思考が巡回するようである。
 
事故扱いになった彼の死。弔いのため東荻窪へ赴く。
 
彼の工房。近所の人たちが共同で用いていたらしい。
二階建ての商店街のテナントの一角である。
夜に訪れたから周りはシャッターがおりていたけれどそこだけ明かりが漏れていた。
外見は木材やガラクタなどの瓦礫が置いてあるから一見とてもぼろいようだけれど、
内装はとても綺麗で、ここで図画工作の教室など開いていたのだろうと思った。
近所のおじいさまおばあさま数名がそこで絵を描いたり、手芸をしたり、書類の整理をしたりしていた。
10帖もないようなスペースの壁二面が戸棚で埋まっていて、机が四つあるものだからとても狭い。
奥と手前の部屋を行ったり来たりする初老の男性。
編み物をする小柄な白髪の女性。
ここではないどこかの空間に存在する静物を描く帽子をかぶった、ねじねじのストールが似合うおじさん。etc.
とても心地の良い空間なように思った。
一言声をかける。部屋を往復していた男性。
あの。
あら、どうしたんですか。ごめんなさい、いまこのアトリエちょっと立て込んでいて。
いえ、あの……彼に、Yさんに。
ああ……
それは彼が作ったガラス細工。
これをお返ししたいんです。これは彼のお母様のものだから。
ふむ、なるほど。
少し考える男性。
ちょっと待っていてくださいね。彼女がまたここに来るかどうかは分かりませんが、なに、おかけになって少しお待ちください。
私は恋人をちょっと見て、あの子を見る。
木製の椅子に座る。高校の美術室兼技術室に置いてあった木製の作業台を思い出す机。
指に付着する埃を構いもせず木目をそっと撫でながら待つ。
恋人が辺りを見回している。ごみごみとしていて、いろいろなものが気になるよね。
あの子は下を向いたきりだ。
会話をする間もなく老人が帰ってくる。
大丈夫です。いやお待たせしました。それはこちらで預かりましょう。
そうですか、ありがとうございます。
私は立ち上がり、ガラス細工を手にする。恋人もそれにならうが、あの子はぼんやりとしたままだ。
ではお願い致しますね。これはお返しします。
老人がそのガラス細工に触れた瞬間、私たちの内から黒い影のような粒子が逃げるように出でて、ガラス細工の中に吸収された。
立ちくらみを起こす私。ちゃんと渡せたのを認める間もなく思わずガラス細工から手を離した。
これはお預かりします。弟さんがちゃんと参列してくれたそうですから、そのうちに取りにきてくださるでしょう。
ここは彼もよく知っていたはずの場所ですからね、と目を細める。
私たちはびっくりする。そんなに迅速に兄の訃報を知ることが出来る場所に居たのかと。
ええ、どうやらお兄さんも彼の居場所は知っていたみたいですけどね。彼が自分で帰ってきてくれるのを待っていたみたいですよ。ずっと。
私たちの努力はいらない、やはりお節介なものだったのかと嘆息する。
そうですか。
お兄さんが亡くなって初めて思えたそうです。やっぱり自分が居ないと駄目なのだと。
そして、どうして相談してくれなかったのかと兄をなじったそうです。死人に口無しですから、彼がどう思っていたのかは誰も知ることがかないませんね。
だからあなた方が気に病む必要性はないのですよ、と微笑んでくださる。
しかし、と私は口ごもる。
良いのです、大丈夫ですと老人は続ける。
元々これは我々がどうにかするべき問題だったのですから。
ずっといっしょにいながら何も出来なかった我々を責めて下さい、と自嘲した。
私は何も言えなかった。
恋人がお悔やみ申し上げます、私たちは何も出来ませんがまた何かお力になれることがありましたらご連絡くださいと名刺を渡している。
お礼を言われて、それではそろそろお暇します、お忙しいところお時間を割いてくださりありがとうございましたと気丈な恋人の声。
目を伏せていた私も、ありがとうございましたと老人を見る。
またいつでもどうぞ、こちらこそありがとうございましたと老人。
催促するように恋人が私の背中を押す。
あの子がハッと気付いたかのようにきょろきょろした後、老人に頭を下げて店を後にする。
私も恋人もアトリエを離れた。
 
私たちのしたことは正しかったのかな?
うーん。
恋人が考えている。
あの子の恋の行方も気になるけれど。
手遊びする彼女を守りたいと私は思った。
確かに我々がしたことは無意味で単なるお節介だったかもしれないけれど、しかもそのお節介によって人ひとり命を落としてしまったと解釈することだってできるかもしれないけれど、死んだのはYさんの意志だったし、あくまでも我々は背中を押してしまっただけだと思う。
だから綾子は何も気に病まなくていいのですよ、と笑った。

*1:2011/12/22

*2:2014/5/10

 私の世界にはどこか空白がなければならない。地図は真っ白でなければならない。調べ尽くされた地図はその意味を理解され得ないままいなければならない。
 他人は永遠に理解し得ないものである。私はいつだって真っ白な世界*1の中からひとつの糸口を見つけ出し、それをたよりに大いなるものを私と対象との間に作りあげてきた。
 影などないような果てしない真っ白な箱の中に様々なものが生まれる。糸で編み上げた楼閣。すべり台。アスレチック。休憩室。ベッド。茶室。必要なものはすべて糸から作り上げた。糸は空白そのものだった。空白を解くと糸は忽ち白く光り、ややあってほんのりと赤く灯る。*2
 するするするするするするするすると糸を手繰り寄せ、指にくるくると巻き付けながら籠を編み上げる。私ではないひとは布を切り私のために服を縫う。空間を震わせるその声は空白を殖やし靄となってふわふわと舞い上がり高みに消えていく。あなたの微笑みで、区界は仄かに赤みを帯びるのだった。

 私は彼女との間にひとつの小物入れしか作り上げることができなかった。当初彼女は私と遊ぼうと指人形を作った。彼女の手は小さく、指はとても細い。結句彼女の指人形は沈黙を生んだ。さらさらさらと空白が蒼く鳴る。私は区界のために小物入れを作った。彼女はそれを見たのだろうか。指人形は彼女のポケットの中に仕舞われた。彼女はすこしためらうような表情を浮かべたが、それは私のためのものではなかった。俄に強風が私を襲い、空白は失われ、区界の時は止まる。彼女は二度と戻らない。

 ある区界では三日と経たずにビルが建設されたのを私は見た。その空白はよく延びてしなやかだった。ぱきり、ぱきりと硬質化するプラスチックのような糸が楽しくて、無我夢中で遊び呆けるうちにビルが建っていた。私の遊んだ残骸で、私ではないひとが組み上げたのだろう。私は感銘を受けたが、同時に底知れぬおそろしさに捕われた。ふたりしかいないこの広い広い空間の果て、私たちが遊ぶ中で生み出された種々の物体の中、迷子になってしまったら誰が見つけてくれるだろう。ぺきっと割れた掌中の沈黙を聞いてあなたは私を視た。気まずいように目を上げると、区界は囁き、空白は萌え出づる。
 枯れるも同じ野辺の草、いづれか秋にあわではずべき。

 さやかな区界には種が生まれる。区界に春の息吹が訪れると、それらの種は芽吹いていく。
 愛しい区界に真っ白なユリが咲いている。私ではないひとはユリと見まごうほどに透き通り、瞳を注視して会釈をする。数年の時を経て作られた琴は、その袴姿によく似合う。生田流の優美な響きを区界はよろこび、草木はのびのびと呼吸をする。

 区界から出られないと思うときがある。私はとてもおそろしくなる。この区界が失われてしまったら私はどこへ行けばよいのだろう、どこを彷徨うことになるのだろう、と。しばらく足を踏み入れていない区界にも私をうれしく思ってくれるものがあることを忘れがちになる。けれど、迷路のようになってしまった区界から出ることが厭わしく、また寝転んで陽光を浴びているソファの居心地があまりにも良くて、私は出たくなくなってしまう。もうそろそろ、と私ではないひとが私に教えてくれて初めてその区界を離れることができる。

 区界の外では空白は溶けてしまう。手のひらで溶ける糸を哀しく見つめた。区界で匂った草木の香りが鼻腔をくすぐり、あたたかな空間を思い出す。萌黄の吐息が冷えて白く消える。やわらかな糸の感触を恋しく思いながら、家路につく。


 

*1:《区界》と呼ばれるのを耳にしたことがある

*2:2013/12/31

 Ignorance is the mother of all evil.
 
 仄暗い洞窟でただ夜明けを待っている。月以外に光を放つものなどない闇の中、やっとの思いで辿り着いた夜露をしのげる場所でぼんやりと座っている。妙な安堵感、それによって増す恐怖。底知れない不安感。自分以外には誰もいないのだということ。お月様がとても近く見えて、手を伸ばすけれど届く訳もない所作を何度も繰り返す。座った土の表は固く冷たくでこぼこしていて眠たいのに眠れない。疲労感が意識を闇に引きずり込むくせに目は冴えている。寒くて震えてもここには布団も況してや温かく包み込んでくれる人もない。ただひたすらに時間が過ぎていくのを教えてくれるのはたなびく雲ばかり。月に照らされて輝くのも見飽きるほど見ていた。それでも美しい。涼しすぎる気候のお陰だと、幸運だと言い聞かせる。
 感傷。口元を覆えば草の香りがする。有機的。息衝くものたちの存在を感じる。私は君の匂いを思い出す。
 膝を抱えて目を閉じる。虫の声が騒がしい。このまま眠れてしまえばよいのに。外気に触れる面積が小さくなりほんの少しだけ寒くなくなる。そうするとまたほんの少しだけおそろしくなって目を開けて、映るものを視る。月が眩しい。その存在の大きさは暗闇でないと分からない。月光は太陽の反射光だから、いったい太陽とはどれだけの存在だろう。月光を浴びるこの身もちりちりと焦がれるようだ。再び顔を埋めて目を閉じた。身の毛がよだつけれど目を閉じ続けないと眠れない。起きていても徒に体力を消耗するだけなんだから、ちゃんと寝ないと。
 身体が凝り固まっているのか居心地が悪い。肩を回すとばきばき音がした。まだきっと眠れないんだ。絶望が頭をかすめる。いいえ、もう帰れないってことではないのだから正しくない。無になれ、考えるなと念じる。考えなくていい、思考に言葉は必ずしも必要ない。
 ぎゅっと抱きしめられているかのようなのに私は君の笑顔を瞼に視た。なにもないまっしろなひろい部屋に寝転んで他愛のない話をし合っている。その幸福なひとときを想起した。その頬に春のうららかな陽光のような微笑みが差す。そのぬくもりはここにはない。かつては届いたが、今はもはや届かない。何もかもが遠い。絡ませた指をどうして解くことが出来よう。その光源との微かなリンクを私だけは信じている。乳白色の混濁した世界ではモノは形をなくし、輪郭は失われ、すべてが融解していく。
 忘れよう。なにもかも。